千葉市中央区PTA連合協議会
               研 修 会 講 演

                          2005年1月29日 ホテルサンガーデン千葉


Quappa の発言

*文中の薄い文字は、予定してはいたが時間の関係で割愛した部分であったり、まとめながら加筆した部分である。
 われわれに与えられた時間は80分。ひとり20〜25分を持ち時間とし、5分延程度でおさまった。

 「きょうの研修会の実行委員長N島君とは中学の同級生です。PTA研修会で不登校をとりあげたいのだけれど、相談にのってくれと言われて話しているうちに、どういうわけか、わたしがここに座ることになりました。
 わたし一人では心もとないので、親の会で一緒に活動しているS村さん親子の助けを得て、きょうの務めを果たすことにしました。二つの家族の体験に基づく話なので「体験的不登校論」と銘打ちました。ささやかな体験ですが、そこからなにかを酌み取っていただけたら、幸いです。」


     
長男の不登校の要因

 長男は現在21歳。小学4年の3学期から卒業まで不登校となる。2学期末から五月雨登校であった。
 不登校の要因は、第一に、学校的価値観に基づく家庭生活をさせようとしたこと。帰宅したらすぐに宿題をやらせ、何時に就寝させるという日課表のとおりに生活させようとしていた。
 第二に、双生児の葛藤である。男児の場合、対抗意識は特別強く、そこからさまざまな問題が生じることについて、親が無知であった。単学級であるためにクラスで、学校で比較され、家で宿題のやり方などで比較され、競争させられ、そんなやり方、雰囲気に耐えきれなくなったのだと思う。
 第三に、クラスの荒れである。上のような心理状態の時に、障害のある男子
、特定の女子を標的とするいじめが行われるクラスにいて、「自分がいじめられている」気分になっていったのであろう。そういう雰囲気が「手洗い」で不安を紛らわすという行動をとるに至ったと思われる。
 第四に曾祖母の死である。寝たきりではあったが、曾祖母の暮らす離れが大好きであった。テレビを見、本を読み、ベッドに潜り込む。憩い(いま流の「癒し」)の場であった。そのショックが輪をかけたと思われる。


    
相談機関・医療機関
  (1) 児童相談所から精神神経科へ

 五月雨になったときから、当時の精神保健センターなどの公的相談・医療機関に電話をかけまくったが、最初に行ったのは児童相談所。「キミの悩みを聞いてくれるところへ行こう」と誘うと「ボクの悩みを聞いてくれるんだ」と、喜んでついてきた。地域担当の保護司と話をして担当のカウンセラーが決まる。12月末から週1回通う。通学できない原因を探り、学校へ戻すためのカウンセリングを期待したのだが、それはなかなかはじまらなかった。
 新学期へ向けての重要な時期である3月半ば、手洗いなどの神経症状が顕著なので相談所の嘱託医師に診察してもらうことを勧められ、それに従う。
 4月から、その医師の勤務する公立病院児童精神神経科で治療を受けることになる。抗不安剤を処方されたが、不適切な処方もあると聞き知っていたので、あたかも毒薬でも飲ませるような気分で一服めを服用させたことを思い出す。

 
診察は週一回。長男と医師がプレイルームで一時間ほど遊び、そのあと、親と面談して、一週間の様子を話す。これをくり返した。
 妻が介護休業をとり、週一回の通院に付き添った。デパートや動物園にも足を延ばしたが、無理がたたったようで、妻が帯状疱疹をわずらった。それと前後して、親子ともに良好な関係にあった担当医が転勤した。新担当医のクールな診察スタイルは前医師とは正反対であり、それになれるまでに時間を要した。

 通院は学校生活が忙しくなる中学2年の5月まで続いたが、薬の服用は小学6年の3月までであった。やめたのは、長男が漏らした一言だった。
長男:「母の実家に行っている一週間の間、薬を飲むのを忘れちゃった」。
 それを聞いて医師がわたしとの面談で言った。
医師:「いまの薬がお子さんにどの程度効果があるのか、ハッキリ言ってわからない。もっといい薬が発売されているので、切り替えてみますか。」
わたし「効果がわからないなら、やめてみるというのはどうでしょう?」
医師:「中途半端にやめると、ぶり返しがこわいんです。」
わたし「いまは調子がよさそうだから、やめてもいいんじゃないでしょうか。ぶり返したらその時はその時です。」
ということで、抗不安剤の服用を打ち切った。

 あと、「ホントウは謎解きをしなきゃいけないんですが、時間がなくてできません」とも言った。わたしはそういう率直な態度に好感をもっていた。わたしが作成した不登校に関する資料を進呈したことがある。後日、「あの資料を発表で使わせてもらいました」と言われた。長男が中学を卒業するとき、中学での活動の記録を作って送付した。これには返答はなかったが、相変わらず多忙を極めているのだろう。「昼ご飯を食べそこなうのは、しょっちゅうだ」と言っていたっけ。


  (2) 教育センター・教育相談の役割

 4年生の2月ごろ、市教育センターの教育相談へ出向いた。
 担任の対応を批判し、教員間の不和など学校の実情を訴え、二人目の不登校児をださないために学校を改革したいと捲し立てるわたしに対し、特殊教育を専門とする退職校長である担当者は穏やかに言った。
 「担任に対する指導を行うのは指導主事の仕事です。校長の学校運営などを指導するのは学校教育課の仕事です。教育相談は一人ひとりの子どもを救うためにあります。相談の結果を研修の際に還元することはしていますが、学校・担任への指導はできないのです」と。
 そして、こう付け足した。
 「学校改革というが、他人様の子どものことより、目の前で苦しんでいるご自分のお子さんを救ってあげなさい。可哀想だ。」
 なお、この権限分担については、千葉県総合教育センター・教育相談担当者も首肯した。

  (3) 市教育委員会学校教育課

 4年生の12月には学校教育部長に面会して訴えた。
 「連絡帳」と保護者から集めた情報を持参し、担任の対応、職員間の不和など学校経営の拙さを訴えた。だが、情報は市教委に提出することを前提として集めたものではないので、校長の面前に出すことは避けてほしいと要望した。
 部長と校長との面談は、2学期終業式に行われた。「学校経営がうまくいっていないのではないか」との問いかけに、「そんなことはない。全員が協力して上手くやっています」と校長は答えたそうだ。家庭との連絡を密にとるようにということで終わったらしい。
 年が明けた1月の雪の日、校長が訪ねてきて、長男を誘い出し、学校へ連れて行ったことがあった。それ以外に校長から連絡があったことはなかった。


    
学校の対応
  
(1) 五月雨登校のころ

 4年生も12月に入り、朝登校を渋る日が続いた。それまで無欠席であったがついに欠席した。

 10月にはクラスが荒れていて、いじめがあり、「クソばばあ」と反抗した児童が平手打ちを食らったなどの情報が入っていた。どういうタイミングで介入しようかと考えていたときに、長男に異変が起こったのだ。
 妻と一緒に、先ず校長、次に担任と面会した。
 校長にクラスの荒れを伝え、学級経営を考え直すように訴えたところ、校長は「わたしの方から上手く言いましょう」と応じた。

 担任には、「子どもたちが暴れて苦労しているようじゃないですか。正直に言ってくだされば保護者も協力します。そうすれば長男も安心して通学できるようになると思います」と訴えた。呼びかけに応じてくれるかときたいしたが、二、三日後、妻が面会に行くと、こう答えた。
 「クラスにいじめはない。わたしが目撃していないのだから、いじめはない。子どもたちはみな仲良くやっている」と。その後、何の改善も見られなかった。
 
だから、上述のとおり市教委に訴えた。しかしそのやり方はいかにも稚拙であった。


  
(2) 年が明けて完全不登校に

 しばらくは放課後登校を続けたが、1月下旬からまったく行かなくなった。
 級友からの「もどってこい」レターが頻繁にもたらされたが、そこには「いじめはもうないから、出ておいで」と記されていた。それを読んだ長男は、「いじめはもう『しない』と言うのならわかるけど、『ない』という言い方をすることは、自分たちがいじめているという自覚がないよね」と感想を述べた。

 最近になって次男が語るところによれば、「ぼくは毎日会っているのだし、なにも書くことがない」と訴えたそうな。そうしたら担任は「あなたのわがままを認めると、クラスのまとまりが保てないのよ」と応えたという。


  (3) 5年生

 5年生を迎えるに際し、わたしたちはこちらの見込んだ教員に担任をやってもらうために動いた。雪の日、ただひとり外で子どもと遊んでいたという教員をくどき、校長にも働きかけた。この教員がクラスを立て直してくれれば、長男は通えるようになるかも知れないと考えたからだ。
 念願が叶って、件の教員が担任となった。担任は毎週火曜日に家にやってきて、長男次男とともに遊んだ。長男もすっかりなついた。秋の運動会には参加し、東京見学にも途中参加した。
 3学期の始業式の夕刻、わたしが通知票を届けに行くと、担任が「もう通える状態だから、いまから連れに行く」と言い出した。わたしは「本人の意思を尊重するから、行くと言い出すまでは待ってくれ」と応じた。なんと言われようと、長男に通学を促す気はなかった。
[ただ、この対立がのちに、通学している次男に厄災となって降りかかろうとは思っても見なかった。6年では何かにつけていびられたらしい。中学になって友人から「オマエ、6年のころ、ひとりで怒られていたな」と言われてはじめて、次男は意識したという。「クラス会で会ったらぶん殴ってやりたい」と言っている。]

 小学校では、教員が「熱心派」と「惰性派」とに分裂しており、後者が前者の足を引っ張ることがよくあったそうだ。行事のあとの慰労会でも、両派は交わることなく、別々に歓談していた。そんな光景を見てPTA役員は「あれは校長の指導力がないからだ」と分析していた。
 5年担任も惰性派から「指導の成果が上がらないじゃないか」と揶揄されているであろうことは想像できた。「あの家と恋愛関係にある」と言われたと、あとで知った。


  
(4) 適応指導教室

 6年生の5月、市教育センターに「適応指導教室」が開設されるという。家に居ても退屈なので行ってみることにする。

 
火曜から金曜まで、バスと電車を乗り継いで教育センターへ行く。過ごすのは午前中のみ。なにをやるかは本人が決める。中三から小六までの男女10名。広い市のあちこちから思い思いの手段で通ってきていた。いつも来る子もいればたまに来る子もいた。登録はしていても通って来れない子もいた。

 そんな子どもたちの間にも「いじめ」はあったらしい。「中一のK君は、ボクの顔を見ると嬉しそうなんだよね。いじめられる仲間が来たと思うんだろうねェ」と長男が語ったことがある。
K君は金銭トラブルにも巻き込まれたらしい。
 また運営スタッフにも首をかしげたくなる言動があった。たとえば、主任は宿泊学習の説明会の際「この子たちは特殊な子だから、旅行保険をかける」と言った。学校に行かない以外は普通の子だと親は考えていたのだが…。子どもたちに人気のあったカウンセラーは「ここはフリースクールではないんだから、いつまでも来てもらっては困る」と言った。


  
(5) 中学校

 市教委からの入学通知が、長男と次男と別の日に届いた。はじめに次男の分だけが届いた。不登校児だからといって来ないはずはないので、葉書を次男には知らせないでいたところ、翌日、長男の分も届いた。
 葉書をみせると、長男はたいそう喜んだ。理由を聞くと、「学校に行ってなくても、ボクも仲間と認められたんだからねェ」と応えた。

 適応指導教室のK君は中学校に三日通ってから適応指導に舞い戻ったと聞いたので「ボクは四日通ってからもどるつもりだった」そうだ。
 それなのに、三年間通いとおしてしまった。手洗いを避けるための手袋着用をもいとわずに子犬や子猫のようにじゃれ合える友だちとそれを温かく見守ってくれる先生方がいたからだ。

 同じ百八十名が通う学校でも、小学校と中学校とでは教員集団に違いがあった。遅れて登校するときに付き添って行くと、中学校では誰が出てきても同じように対応した。教員に一体感があった。小学校は担任だけが対応していた。

 通い出して数日、「きょうは休みたい」と言いだした。せっかく通い出したのに、ここで休んだら元の木阿弥だと考えたわたしは判断に迷った。イイよとは言えなかった。そこに祖母が割って入り「明日は行くってことで、きょうは休めば…」と取りなしてくれた。
 あとでカウンセラーから言われた。「一大岐路だったわね」と。「『休みたいときには休んでいいんだ』とわかったら、そのあとは気楽に通えるでしょう」ということだ。

 二年生の秋には、生徒会役員に立候補し信任され、合唱祭、体育祭を仕切った。運動部にも所属し、トーナメントにも出場した。


    
近所の対応

 話は前後するが、小学五年生の2月のこと。隣村の習字塾の先生が、子犬の散歩に誘ってくれた。集団登校の時間帯に、登校の列とは逆方向に、朝食も摂らずに自転車を漕いで行った。
 はじめはイヌはこわかったらしいが、慣れてくると平気になったそうだ。イヌの方も長男の自転車の音を聞き分けると、キャンキャンと喜んだという。散歩のあとは、朝食をご馳走になることもあったし、午前中いっぱいを過ごしてくることもあった。この間に、元気をミルミル回復していった。
 暖かくなって、6年生の新学期が視野に入るころ、「もうこれだけ元気になったのだから、学校に行ったら」と言われたらしい。その翌日から、朝の散歩には行かなくなった。

 不登校になっても、悪いことをしているわけではないのだから、日中からで歩いてもよいと、つねづね言い含めていた。それでもやっと5年生辺りから、日中もひとりで外出するようになったと記憶している。農協前の広場、レストランの駐車場に自転車で乗り付けては、ボーッとしていたらしい。
農協職員からは、「車とぶつかりそうになった」などの情報が、祖父のもとに届いていたらしい。
 近くの親戚にもよく通った。そこの幼稚園児が帰宅するのを見計らって出向き、兄貴風を吹かせていたらしい。

 これは近所とは言えないが、T巳台のラグビースクールにも、毎週日曜日に通った。時に6年生から「オマエ、学校には行けよ」と言われることもあったが、コーチ陣はそのことには触れなかった。6年夏には、二泊3日のリーダー研修会にも参加し、日程をこなした。通学していなくたって、集団生活を送れると、親は安心し、本人にも自信になった。


    
わたしの変化

 「学校に行かなくてよい」とは、なかなか言えない言葉だが、わたしの場合、スンナリと言えた。小学4年の担任に子どもをまとめる力はなかったし、教員たちは相変わらずバラバラだった。だから、「あんなひどい学校には行かなくてよい」と言えたのだった。
 しかし、他方では[別の学校なら、5年生から通えるのではないか」と、かつての担任と連絡をとっていた。そして放課後登校に、積極的に付いて行った。1月下旬のそんなある日、登校の時間が近づき、支度を何度か促した。と、その時、長男が鋭く言い放った。
 「
学校に行くときのお父さんって、いつものお父さんと違う!
 これで、わたしの言葉と行動の矛盾に気がつかされた。この日から登校をやめた。

 また、長男の観察日記もつけていた。それはフロッピーディスク2枚に及んだ。それを一週間ごとに友人知人に読んでもらっていた。「淡々とした記述から、学校がどんなにひどい学校であるかがよく分かる」と評されたりして、悦に入っていた。
 5年生の夏休みに中断したあと、9月に復活した。
 あるカウンセラー(上述の評者の奥さん)は言ったという。
 「
Qさん、やっと子どもに寄り添うようになったと思ったのに、また観察者(監視者)にもどってしまったの
 監視されていれば、住み心地は悪い。わたしはこれで、観察日記をやめた。

 こういう体験を経て、子どもの成長を確認して、子どもを見直し、自分の考えを変えて来た。「子育て」というより「育ちあい」という表現が相応しいと思っている。


    
長男その後
  
(1) 高  校

 自己推薦入試に合格し、自転車で通える市内の高校に入学した。
演劇部に所属し、部長も経験した。中学同様、友人と教員には恵まれたが、部顧問が代わってからは部の運営に苦労していた。部屋から漏れ聞こえる怒声や絶叫はその鬱憤を晴らしていたのであろう。しかし友人からは、「キミは困難から逃げなかったよね」と言われたそうだ。最大級のほめ言葉であろう。
 
英語塾に通い、NZにホームステイもした。英語に自信をもてたことで学業も順調だった。県内の私大に公募推薦で合格した。


  
(2) 大  学

 入学式場では隣の学生に話しかけないし、オリエンテーションの教室では、壁際の席に斜に構えて座っているのが気になった。
 前期は講義にも出席していたが、後期からは足が遠のいていった。「高校時代、たまたま成績が良くて、オマエは大学に行くんだよなと言われ、その気になってしまった。しかしボクはもともと勉強が好きではない。専攻も期待した内容ではない」。2年前期を以て退学とした。そのころ、「わけもなくイライラする」と語っており、イライラの原因と思われる「大学」を取り除くことで、それを解消しようとした
のだが、精神状態はさして変わらなかったらしい。
 神経症になると、疑い深くなって、他人を信用できにくくなると聞いたことがある。だが、退学手続の際面談した事務職員が「どうせ仕事で、通り一遍の対応だろうと予想していたところ、わがことのように心配してくれたことに感激した」と目を潤ませて報告した。
 
留年や休学はしても卒業はするだろうと考えていたのだが…。


  (3) アルバイト

 どういうわけか、「国民年金の保険料は自力で払う」と言い、隣町の書店でアルバイトをはじめた。当初は店長を信頼し、大学を続けるかについても相談していたらしい。
 ところがその店長が、長男の生き方について「軟弱な奴め、自衛隊にでも行って鍛え直してこい」などと、押しつけがましいことを言うようになった。
 1年以上働いていたし、もうやめても良いとすすめたが、負けたくないと続けていた。
しかし見るに見かねて、店長に注意をしてくれるよう社長に申し入れた。その後しばらくはやんでいたが、いつしか心ない言葉が復活したらしい。くわえて、尋常では考えられない仕事をあたえられ、それをも意地でこなしていたが、もう限界だと言い、アルバイト自体をやめた。あとから聞くと、「手を洗うな」とまで言われたそうだ。

 アルバイトのストレスで精神のバランスが崩れてしまうと自分で判断し、最初に診察してもらった医師を捜し出して、そのクリニックへ通っている。


  
(4) 救急車の手配

 講演の前日、発熱していた祖父が意識を失った。数日前から何度もあったので、祖母を促して救急車の出動を求め、救急隊員にもテキパキと対応していたという。祖父母を乗せた救急車が出発したあとも、集まった隣人たちに「大した病状ではありませんから、大げさにしないでください」と頼んでいたという。
 「もう、しっかり大人ですね」と言われた。


    
ま と め

 不登校のころは、誰かに問われると「学校に行かないことを除いては、他の子どもと何ら変わりはありません」と答えていた。いまは「働いていないことを除けば、年齢相応以上に育っている青年です」と、答えることができる。

 「辛いことから逃げている」などとよく指摘されるが、長男は辛いことによく耐えてきたと思う。「高校や大学でももっと手を洗いたかった。しかしみんなに嫌われるのがこわかったから、我慢していた」という。書店では、その手洗いそのものをやめろと言われたわけで、そんな無理解な環境では暮らして行けないということだ。
 いまは疲れた心を癒すときだ。

 将来のことは確かに心配だが、自分のことを適切に判断できていると思われるので、自分に相応しい生き方も見つけることができると考えている。



S 村 息子 の話

      小学2年から不登校

 ドッジ・ボールをやるのがいやだった。「人にボールをぶつけるなんてイヤ」と担任に言ってみたが、「みんながやるから、やりなさい」と言われ、反論できなかった。

 ボクが学校へ行かないことであせる母を見ていると、ボクも不安になる、「どうしよう」。学校が辛いから休んでいるが、そのことが母を苦しめることになるのでそれも辛い。

 担任の家庭訪問や電話はこわかった。学校がこわくて避けているのに学校が家にまでやって来るのだから。

 教員と児童など対等でない関係、指導的関係は、その中に身を置くことが辛い。友人関係なら、辛くはない。


      友人関係

 みんなが学校へ行っている時間帯に外出すると、大人に注意されるんじゃないかと考え、日中は外出は控えていた。学校から帰った友人とは遊んでいたが、「ズル休み」と言われ、石をぶつけられたことがあった。「この子たちとはもう遊べない」、その時そう思った。
 「ボクは悪いことをしている」との思いが、自分の評価をどんどん引き下げていった。

 母は親の会をはじめてから、落ち着いてきた。
 母が学童保育の指導員をはじめてから、ボクも会場に着いていった。そこで知り合った友だちは自立心も強く、対等な友人関係をつくることができ、自分に対する自信を取り戻していった。

 学年が進むに連れ、学校へ通っている友人たちが、これまでの彼ららしさを失って行くことに気がついた。そんなときに、彼らが護身用のナイフなどをもっていることにも知った。学校がとても厳しい場であることを感じた。。


     十五歳からの引きこもり

 「将来、ボクはどうやって生きて行けばいいのか」と考えるようになった。好きなことを見つけてそれで生きて行きたいと考えていろいろやってみたが、みつからない。「見つからないよ!」と不安が増した。そんなとき「死にたいなあ」と思った。
 あるとき、「死にたいと
っているボクが生きているじゃないか。ボクは死にたくなかったんだ、ボクは生きたいんだ」と気がついた。
 それから、外に出られるようになった。


     いろいろな大人たち

 それからはいろいろな大人に出会った。
 たとえば、パン屋さん。気の向くままに商売をしていた。いつも精一杯、一生懸命働いている人ばかりではないんだ、人間、それぞれのペースで生きればいいんだと感じた。

 不登校ということもあって、ずっとご無沙汰していた両親のふるさとへ帰省した。祖母は、ボクの顔を見て、ボクの名前を呼んで、涙を流して喜んでくれた。「ボクの存在そのもの」を喜んでくれる人がいることに感動した。

 このことがきっかけで、老人介護の仕事に興味をもった。はじめはボランティアであったが、研修を受けることを勧められ、研修を受けて仕事とするようになった。
 しかし、出向いた家で、当のお年寄りはデイ・サービスへ行くのをいやがった。家族は行かせたがった。結局、デイ・サービスへ連れて行った。あとでスタッフと話し合った。「ボクはお年寄り本人の意向に従わないのはおかしい」と主張したが、「家族の意向に従う」というのが他のスタッフの考えだった。それではやってられないので、ヘルパーの仕事を辞めた。


     い ま は

 そのあとは、子どもに関わる市民運動に取り組んでいる。不登校以外の問題に関わるうちに視野が広がってきた。NPO法人の事務局長をやっている。
 資格を取ろうとすると、中卒では受験さえできない。でも大検資格を取れば受験資格をクリアできる試験があることを知った。準備期間は10ヶ月しかなかったが、一度で合格できた。
 いまの日本では、同年齢の子どもが同じ時期に同じ内容を勉強するのが当たり前だけど、「勉強したいと思ったとき」に、「必要だと感じたとき」に勉強すればいいじゃないかとの思いを強くした。



■ S村 母 の話

* 以下の部分はメモも不十分であり、時間が経過して記憶も薄れてしまい、アップできずにいた。しかし、主催者の記録係が話の内容をまとめた文書を送ってくれたので、それをもとに加筆してまとめることができた。多謝。(05.02.20)

   
 親の心境

 子どもの不登校とほとんど同時に、自分から話せる場が欲しいと感じ、社会的に悩んでいる人が多く、しかも孤立している人が多いという中で、社会の中で必要と感じ、親の会を立ち上げた。

 最初は、育て方が悪かったのかと悩んだ。 周りの人からもそのように言われた。
 息子も他の人と異なる生活をするため、電車に乗れない、外食できない、というような状況であった。普通の生活ができるようにと無理に連れ出したが、レストランでふるえている、電車で青くなっている息子を見て、外出は車で弁当持参でと切り替えた。親の価値観が問われた経験であった。

 不登校を否定せず、受け入れたことにより、親が落ち着いてきて、子どもも元気になってきた。登校を強いる、登校しないならこれをやってほしいという風に、子どもを追い詰めてはいけない、ということが分かってから落ち着いてきた。

 普通ではない、平均的ではない生活を送るということは、本人にとっても大変なストレスとなる。そういう状況のなかで、味方がいることがいかに心強いことかがよく分かった。苦しい時にこそありのまま認められたいという気持ちは、子どもも親も同じであることを学んだ。

 その体験によって、学校へ行く・行かない、いろいろな状態があっていいんだ、ということが自分でも認められるようになり、親である自分も楽になって、人生が味わい深くなったと感じた。


   
 若者たちは「生きにくい世の中だ」と感じている

 親の会の活動や、NPO活動を通じ、若い人たちと付き合うことが多くなっているが、若い人たちで「生きにくい」と感じている人が多いと思う。

 「生きにくい」ということは、大きく分けて、「居場所がない」、「生きる拠り所がない」、という二つがあると思う。

 「居場所がない」ということは、家庭で不登校を認められていない、学校に行かなくてもいいが、代わりにいろいろとやりなさい、家では勉強しなさい、と求められ、「ゆっくり休むことが許されていない」状況になっていることが多い。

 「生きる拠り所がない」ということは、自分が認められているという実感がない、自分自身も「これで良いんだ」というようには思えない、そういうことを言ってくれる人に出会っていない、ということが多いと思う。

 大事なことは本人の味方になってあげることであると思うが、当事者が望んでいることは、次の三つであると思う。

  @ いまのありのままの自分を認めて欲しい。
  A 対等な関係でありたい。
  B 居場所が欲しい。

 第一に、「ありのまま」で親に認められたい、と皆が切実に望んでいる。親から責められると、死にたくなる、という気持ちを感じており、つらい時に、その気持ちをわかって欲しかった、と経験者が言っている。

 第二に、「対等な関係」ということでは、カウンセリングなどでも自分はいつも指導される側で、人間関係で常に下にいるという辛さを感じてきた、と語った経験者がいた。友だちというような対等な関係が欲しい、ということであると思う。

 第三に、「居場所が欲しい」ということは、物理的な場所ではなく、無条件で自分が肯定されている場所、そのような価値観を求めている、ということであると思う。あなたの味方である、というスタンスの人がいるところが、本人にとっての「居場所」になると思う。

 「学校に復帰した」、「就職をした」という形ではなく、大事なことは本人の気持ちであると思う。
 不登校の子どもは、それまでに無理を長期間続け、疲れきって、自分をだめな人間だといって責めている。
 自分を責めている部分を、自分を責めなくていいんだ、他の人より劣っているのではないんだと考えることで楽になっていける、その状況を作っていくことが、親やサポートする人のやることであると思う。


   
 子ども も 親も 「自己肯定」

 よって、「学校復帰」を手伝うということよりも、本人の「自己肯定」を手伝うということがポイントであると思う。
 自分自身を公定し、自分に自信を取り戻し、その結果として、学校を選ぶ人もいるし、他の道を選ぶ人もいる。どちらを選ぶにしろ、本人の気持ちが大事であると思う。

 サポートする人が、本人のあり方を否定しないこと、肯定する価値観を持つことが重要であると思う。当事者から学ぶという姿勢をもつことで、価値観が変わってくると思う。
 このようにすれば子どもが元気になります、というような簡単なものは無い、と思う。

 本人にとっての「自己肯定」とは、「不登校」という経験をどう捉えるか、ということであり、いつまでもだめだ、ということでななく、これがあったからこそ今の自分がいるんだ、というプラスに考えることが大事であると思う。わたしたちの“NPO”も、そのように考える若者たちがつどい、活動している。

 どんなに学校が多様化しても、子どもの多様さの方がまさると思われ、学校外の成長の場が認められたり、“Home Education”などが整備されてゆくことにより、「学校へ行かない生き方」が一つの生き方として認められることが必要であり、重要であると思う。そうすれば、学校に通っている子どもたちも、もっと楽に生きられると思う。

 親ももちろん、周囲からも肯定されることが基本的に大事なことであり、暖かい目で見守られることによって、安心して本心からゆっくり休むことにより、「自己肯定」ができるようになると思う。

 サポートする側の姿勢としては、自分の価値観を見直すことが必要だと思う。 それによって、目の前の子どもとの関係が変わってくると思う。相手を操作しようとしていないか、自分で自分を見つめ直してみよう。一人の人間として対等に関わってゆくことが大事だと思う。

 息子が「戦争が起こったらどうしよう」「宇宙人が攻めてきたらどうしよう」などとありとあらゆる不安を訴えたことがあった。最初はそんなことはないと理屈で納得させようとしたが、ダメだった。夫が「心配するな。おマエのことは、最後までオレが守ってやる」といったらおさまった。言葉で理屈で反応するのではなく、気持ちには気持ちで対応、共感することが大事だと思う。
[息子がいうには、親が先に死ぬんだから「最後まで守る」というのはウソだとわかる。しかし、親に大切に思われている。親を頼っていいんだと実感できたことが嬉しかった。]


   
 親の会の役割

 「親の会」は、体験者が情報交換をしている分かち合いの場であり、学び合いの場でもあり、支え合いの場でもある。出席した親は安心して、気持ちにゆとりができる。その安心した顔を子どもが見ることで、子どもが安心する。そういうこともあり、大事な存在であると思っている。

 「不登校」や「引きこもり」の問題は、個人の問題というより、なんでも個人の責任にしてしまう社会のあり方が背景にあると思う。 
 「不登校」の苦しみは、社会的な苦しみ、とも言えると思っている。
 「不登校」や「引きこもり」の当事者の不安や孤独感は、そうでない人であっても、誰もが一度や二度は感じたことがあると思う。 同じ感情を持っている人間として考えて欲しいと思っている。



Quappa の結語

 「S村さん親子のしっとりとした話を聞いていて、わたしの話しを短くして、もっと時間をかけて話してもらうべきだったと反省しております。

 さきほど「親の価値観が問われる体験であった」という話が出ました。
 良い学校を出て、良い就職、それが人生の幸せ。そんな考えをもって生きてきた者にとっては、学校に行かないことはその前提が崩れるわけで、人生の一大事です。不登校を認めるということは、「自分自身の従来の考え方を変えなければならないのか」と聞かれることがあります。
 そういうとき、わたしたちはこう考えます。すなわち、あなたの考え方を変えなくてもよいでしょう。あなたはそう考えていても、そうでない生き方をしようとする子どもを、認めてあげればいいんじゃないんですか。おのれの生き方・考え方を子どもに押しつけるのではなく、子どもの生き方を認めてやる、そう考えればよいのではありませんかと。価値観を変えるのではなく、別の価値観も認めるということです。

 親の会にもいろいろあって、不登校の子どもを学校に戻すことを目的とする会もあります。戻すことを請け負う業者もあります。しかしわれわれは、学校へ戻るのも一つの選択肢であって、本人が納得してその道を選んだのであれば、その選択を否定するつもりはありません。しかし、それがすべて、学校へ戻ることが解決とは考えていません。
 以上が、不登校の当事者としてのわたしたちの考えです。ご静聴、ありがとうございました。」



 * 参加者の感想などが入手できれば、さらに後日アップします。